凪の旅路

ちょうど、こんな空でした。

* 

私はこのひとと一緒に繁華街を歩きまわっていた。
今日は珍しく北風は止んでいたけれど、暗い雲がどんよりと空を覆っていた。
この時間になると町中のネオンや明かりが反射して、空は明るかった。
私達は黙って歩き続けた。どこへ行く予定もなかった。

歩行者の波にもまれ、離ればなれになりそうになりながらも、私はこのひとの左側に寄り添ったり背中に隠れたりしながらついていった。
人がまばらになってきた繁華街のはずれに、一軒の古本屋を見つけた。
私達は、いつもそうするように、店へ入った。
中ではそれぞれに好きな順序で本棚を物色していった。
三十分ぐらいそんなことをしていただろうか、やがてレジから店員の声が聞こえた。
このひとが何冊か買っていた。
私は先に外へ出た。

 寒い。ロングコートの中までしみこんでくる寒さだ。身がひきしまる。

今だけだ。
今は一番いいときなのだ。
私はこのひとに必要とされている。もちろん私も必要としている。
私達は若い。恐いことを、辛いこと悲しいことを、それほど知らない。
二人でいれば、何でもできる。
でも、こんな時間をいつまでも続けられるはずはない。
やがて迎える下り坂を、私達は別々に歩いてゆくに違いない。
どんなに拒んだとしても。

 ふと気づくと、このひとが隣にいた。
はい、といって手渡すものは、私がずっと探していた本だった。
私も探したはずなのに、見過ごしていたらしい。
硬貨二枚で手に入るセカンドハンドだったけれども、うれしかった。
どんなに素敵な洋服よりも、どんなに高価な宝石よりも。本を受け取った手のひらが、じんわりと温かくなった。
ありがとう、と幾度もつぶやいた。私達はまた歩いた。
このひとは何か考えて、うん、とうなずくと確かな足取りで少し先の焼鳥屋へ向かった。

 店へ入って私達は話をした。
仕事のこと、家のこと、子供の頃のこと、堰を切って話し続け、時々思い出したように飲んだり食べたりした。
一緒に笑った。一緒に考えた。一緒に何かを感じた。

 貴重な時間は刻々と過ぎていた。
時計を見ると、いつの間にか終電の時間だった。私達は立ち上がって店を出た。

 「雪だ」
 このひとと私はほとんど同時に声を出した。
白い鳥の羽根が、羽根よりも厳粛な重さをもって、無数に降ってくる。
はるか彼方の暗闇から私達の周りに、肩に、顔に、唇に、降ってくる。
雪。
唇に止まった一片を舐めてみる。
空に浮かぶ塵や排気ガスを含んでいると聞いたことがあるけれど、この雪は、純粋。

「吸い込まれそうだ」
空を見上げてこう言ったこのひとが本当にどこかへ行ってしまいそうで、私はいそいでその袖を、ぎゅっとつかんだ。

 雪は暗黒の一点から放射状に降ってくる。
私達に、この道に、この町並みに、この地方に。
雪は降り続ける。
今までも、そうしてこれからも。

私はこのひとと一緒に歩いてきました。
今、目の前にやせ細って横たわるこのひとと、私はずっと歩き続けていくのでしょう。

 病室の窓から見える、雪。
視力が衰えた今でも、その白さだけは私の目にはっきりと映るのです。
このひとはきっとあの夜のことを忘れてしまっていることでしょう。
なにせ四十年も前のことですし、何でもない、普通の日だったのですから。
それでも私には、つい昨日のことのように思い出されます。

「お父さん、見える?雪よ」

骨張った顔を窓の方へ向けて、かすかに目を開けて、空の一点を見つめながらこのひとは言いました。

「ああ……ここの焼き鳥、うまいなあ」

 治る見込みのないこのひとの前で、私は初めて泣きました。

(終)(初出1998)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。