1 ー ラウル

その頃、オレの生きる街ではしょっちゅう、大人たちが喧嘩をしていた。
例えばバスを待つ列。
例えば屋台のテーブル。
最初は、並び順だの肩がぶつかっただのオレにもわかるような因縁つけに始まって、そのうち「グォチンジェ(国慶節)」だの「シュアンシンジェ(双十節)」だの難しいことを言い出して殴り合いになる。

意味は全くわからなかったが、このタイミングが財布を狙うのにふさわしいと気づいたのは、オレの背丈が大人のヘソあたりになった頃だった。
つまり、オレはそれまでもそうやって生きてきたガキだった。

「こらぁクソガキ待ちやがれ!おぅい!こいつら泥棒だー!!」
「やべえ、逃げろッ!!」

混沌のバザールに、点心屋のオヤジとジョゼの叫び声が聞こえた。
そのときオレの手は屋台の柱に吊るしてあった鴨肉の丸焼きに伸びていて、もう少しで届きそうだった。
露天店主たちは点心屋の声につられ、隣の店主やら客やらとのおしゃべりをやめて自分の店を点検し始めた。
オレはパプリカやら、マンゴーやらの入った籠を押しのけ、膝を乗せ、精一杯手を伸ばして鴨を縛る縄を柱から引きちぎった。

「ミゲル!ミゲルどこだ?!」

台から飛び降りながら、並んだ屋台を見渡す。

「ラウル!ここだ!」

小さなボサボサ頭が、ふたつ後ろの鶏屋の向こうに見えた。

「はしれ!!」

叫んでオレは、観光客の足元を縫うように駆け抜けた。戦利品の鴨を抱え、体勢を起こしながら走って、屋台通りを抜けるころには息がはあはあとあがってきて、苦しくて苦しくて、それでも逃げ切らないとこの肉は食べられないから、必死に街を駆けた。

ーーいつぶりだろう?肉だ、肉だ!!逃げ切るんだ!

デモ隊を見つけ、紛れこんで息を整える。
最近増えてきたデモ隊は、オレたちのいい隠れ処だ。

「…キミ、どうしたの?」

綺麗な身なりの婦人が隣から声をかけてきて、オレを頭からつま先までしげしげと眺めた。婦人の長い髪はつややかな黒で、唇は赤かった。ぱりっとした水色のシャツ、白いスカートに赤いハイヒールを履いていた。婦人からは甘い匂いがした。

「ねえ、この子」

婦人は向こう側の誰かをつついた。顔を出したのは、色の白い、黒ぶちの眼鏡をかけた、ひょろりとした男だった。

「うん?……はぁ、なんだい、君、デモに参加…というわけでもなさそうだね。親御さんはどこだい?」
「……」

オレは黙って、鴨を抱え直した。

「血が出ているわ」

婦人がポケットから真っ白いハンカチを出した。それはオレの頬に柔らかく触れた。
オレは泣きそうになって顔を背け、立ち止まった。

「早くお家へお帰りなさいね」

婦人はそう言って、なおもゆっくりと歩いていった。
次々と追い抜いていく大人たちの間で、オレは歯を食いしばって鴨を抱いた。

「帰る家なんかない……」

デモ隊が去り、小さなオレが残された。
と、不意にどこからか、ミゲルの笑い声が聴こえた。慌ててあたりを見回すが、姿は無い。

「……そうだ、ミゲル……」

オレは汚れた手で顔をごしごしと拭き、合流場所の教会へ急いだ。

(初出 2015-6)

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