狐火の唄

或る山深い峡谷に、春の一ヶ月だけ、陽のあたる谷があった。一ヶ月、芽吹き花咲くうちにも桜が最も優美なので、『櫻乃郷』と呼ばれていた。
深く険しい山の中、そこに踏み入る人間は道に迷った猟師だけ。麓の村では、古くからの言い伝えにより、聖域とされ、畏怖されていたからだ。

その一ヶ月以外の日々、つまり桜の咲いていない時期、そこは墓場であった。死期を悟った竜が、この郷へ訪れる。

小さな家があった。
女狐が住んでいた。
竜が墜ちるようにやってくるといつも、女狐はなぜか途方もなくさびしくなって泣いた。その涙は地面に落ちると蒼い炎になって広がり、半死半生な竜の身体を焼く。ある竜は炎の灼熱に苦しみ、ある竜は後悔に涙を流す。女狐は泣きながら、その身体を食べる。鱗も、骨も、残さず食べる。
そうして、彼女は生きていた。

——ある日、谷に猟師が迷い込んできた。
足を怪我しているようで、ふらふらと女狐の家の前まで歩いてきて、力つき倒れた。
自分の姿を見られてはいけない。女狐はしばらく迷ったが、あまり上手とは言えない呪術で女の姿に化け、なんとかして男を部屋へ運んだ。そして彼が目を覚ますのを待って、訊ねた。
「この足はどうなさったの」
「……しくじった」
「そう」
詳しく聞いたところでどうせわからない。女狐は傷の手当を終えて言った。
「歩けるようになるまで、どうぞここでお休みくださいな」
「有難う」
女狐は気づかれぬように小さな声で呪文を唱え、傷を癒した。

それからひと月の間に、三度、竜が墜ちてきた。しかし女狐は泣くことも、それを食べることもしなかった。
「具合が悪いのかい」
男にもわかるほどに、女狐は衰えていった。
四度目、鱗の剥がれ傷ついた竜が墜ちてきた日、とうとう彼女は男に告げた。
「驚かないでくださいね…」
涙の焔で焼かれる竜を喰らう、金色の狐。
数日かけて全てを収めた女狐に、ただただ眺めていた男はひと言、
「御苦労」
と微笑む。
その夜、ふたりは契りを交わすことになる。

桜が咲き、1年過ぎ、また桜が咲き、2年過ぎた。
女は、竜の落ちたときにだけ、狐であった。相変わらず死期を悟った竜はこの郷へ墜ちてきたし、女は黙して涙を流し、生きるためにそれを喰らった。
男はそれを別段嫌うでもなかった。その腕前で猟をして獲物をとってはきたが、女はそれらの動物を食べようとしなかった。また、男も、無理に勧めることもなかった。

恙ない日々。10年経ち、50年経ち。出会いから、桜は99回咲いて、散った。
男と愛でる100回目の夜桜に、女は問うた。
「ばけものと知って、それでも一緒に居てくれたのは何故です」
桜の花びらかと見紛うような、はらりとこぼれた涙が、地に落ちて蒼い焔となった。
焔が男の足下まで広がると、男の姿は、月まで届きそうな漆黒の竜に変化した。
「しくじった。そなたの手当で死に損ねたのだよ…」
肉の焦げる匂い。熱した鱗の弾ける音。蒼い焔を受け容れるように、竜は其処を動かなかった。
「もう少し、生きてみたいと思った。……すまぬ」
微かに竜は笑っていた。女狐は堪えた。
「初めてお会いしたあのときに…喰らってしまえば良かったとでも言わせたいのですか…!」
竜は笑っていた。女狐はその眼の中に、100年の記憶をみた。人に化けた姿で笑いあい、言い争い、風月を愛で、いだきあう、張りぼての、しかし魂の交歓をみた。
女狐が呆然とそれをすべて受け入れると、どさりと大地を震わせて、彼は今度こそ力つき、谷を埋める肉の塊となった。
「……ああ、お返事を、あなた様」

女狐は黙々とその身体を食べる。おずおずと腕にかじりつき、鱗も、骨も、残さず食べた。それからもう片方の腕、長い尾、脚、腹から胸へ、この頃には少しもためらわず顔から頭まで、何週間も、休むことなく喰らい続ける。
全て跡形も無くなってやっと、女狐は金色の尻尾を震わせ、大声をあげて泣いた。
その涙は自身をあっという間に焦がし、狐の身体は竜の墓場に焼け落ちた。

それ以降、死にかけた竜はもうそこを訪れなくなったという。
しかし、郷の桜は何の変わりもなく、毎年春の一ヶ月だけ咲き、散り、枝と根とを伸ばし続けている。

(了)(初出 2014-12)

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