夜明けの軋み 6話 ふたたび、ふたたび春、萌芽

桜も玉蘭も散った。
そして、無愛想に枯れたような枝から、柔らかな黄色い芽が顔をのぞかせたと思うと、あっという間に新緑の装いを纏う。

橘は、慣れ親しんだ小夜子の家の庭を思い浮かべながら、整然と区画された紅が丘の街並みに車を走らせた。
もう、売れ残りの麦畑はない。
走っても走っても住宅街。
紅が丘サニータウン構想は着実に形をなし、首都圏有数のベッドタウンとなったのだ。

「ちょっと……早かったかな」

助手席に置いた袋の中身を思案しながら、しかし、右折と同時に差し込んできた陽の光の強さに目を細めて橘は、まあ良いだろう、腐るもんじゃなし、と独りごちる。

『お前は、理人を繫ぎ止めるために赤ん坊を利用しようとしてるんだ!』

あの晩、橘は語気を荒げて小夜子を詰った。
握りしめた自分の手が震えているのを彼は感じていた。

『お前の腹ん中に居たってなあ!お前の道具じゃないんだぞ!!一人の人間だろうが!!
一年経てば歩き出す、二年もすりゃ喋り出す、自分の意志を持つ人間なんだぞ!大きくなったときにどう説明するんだ!!
【あなたはパパの食糧になるために生まれたのよ】とでも言うつもりか』
『やめてッ!!』

屹とした視線がぶつかり合う。
手負いの獣のような、追いつめられた眼だと橘は思った。
小夜子は、その眼をいったん閉じて深呼吸をすると、また開く。

『……正直に言えば、その計算がなかったわけじゃありません。でもそれは、この子が自分で判断できる歳になってから選べばいいと思ってる。理人さんにもそれは説明します』

彼女は冷静であろうとした。
むしろ、橘の方が感情を隠そうとしていなかった。
嫉妬、が、全くなかったとは言い切れない。
小夜子とあの居間で茶飲み話をしながら朽ちていく、そんな未来を想像したことがないわけではないのだ。

だがこれから先、小夜子の、自分に
向ける思慕が、思慕を超えることはないだろう。
しかし小夜子が自分を頼ってくる以上、それを拒み、見捨てることなどできない。
——やはり、自分は彼らの一番の味方でいよう
橘はそう腹を決めて、毛を逆立てた猫のような小夜子に向かって頷いた。

『わかった。……悪かったな、酷いことを言って。びっくりしたんだ、まさか、そんなに大きくなってるなんてな』
『いいえ、私こそ黙っていてごめんなさい。橘さんが言ったことは事実だわ。それでね、ひとつ相談があるの。橘さん……幻種総合支援部門の、橘部長に』
『え?』
『あのね、ヴァンパイアの力を社会のために有効利用する代わりに、結婚と親権を認めてもらうにはどうすればいいかしら』

最後の坂道カーブを登りきり、桜の木の下に車は停止した。
橘は、助手席の大きな袋を引きずり出して、車を降りる。
彼が古い玄関の引き戸に手をかけようとした途端、ガラガラと音がして戸が開くと、理人が赤ん坊を抱いてそこにいた。

「ああ、橘さん!そろそろ来るんじゃないかと思いました」
「おう。……真美(まみ)、またでかくなったんじゃねえの?」
「全てが順調ですよ」
「おー、笑ってらあ!……髪の毛はこりゃ、黒で確定だな。ママ似だ」
「デミ種のハーフは父親の性質を継ぐことが多いそうですが」
「ヴァンパイアのハーフ事例はまだデータが足りないからな、そういうもんなんじゃねえの?いいじゃねえか、この目の色は確かにお前の色だよ……んー、ぷくぷくしやがって……」

相好を崩して、橘は赤ん坊の頬をつついた。
赤ん坊は、ニンマリと笑っている。小さな手を伸ばし、差し出された橘の指をしっかりと握りしめた。
そこへ、パタパタとスリッパの音と共に、理人を呼ぶ声が近づいてくる。
橘は小さく舌打ちして、せわしねえなぁ、と呟く。

「理人さぁん!橘さんはまだな……あら、いらしてたのね」
「うん。これ、生後3ヶ月ぐらいで夏物で女の子で、って言って、店員に見繕ってもらった」
「夏物が欲しいって言ってたの、覚えててくれたの?……わあ、ありがとうございます、こんなに沢山。どうぞ、入って」
「ああ」

仏壇と座卓しかなかった部屋にベビーベッドが置いてある光景には、もう慣れた。
しかしさらに、1ヶ月前に来た時にはなかった白い子供用タンスが、不似合いな和室の隅に置かれている。

橘は、ポケットから煙草を出そうとして、その手を畳の上に戻す。
理人はベビーベッドの上に寝かせた赤ん坊のオムツ替えを始めた。
湯のみを三つ、お盆に乗せて来た小夜子が、そのうちの一つを橘の前に差し出して訊く。

「で、例の話は、どうでした?」
「法改正は、通りそうだ。ヴァンパイアの結婚と、……おい理人、お前が父親になることも、認められそうだぞ!
さすがにヴァンパイアの結婚を認めないのは、断種法にも繋がりかねない人権侵害だろ。その手の人たちが黙っちゃいなかった、ってことさ。国会が動くのも時間の問題だろう」
「当然だわ、ねえ理人さん?」

理人は考えていた。
——何故だろう、こんなに瑞々しく生き生きとしたマナを放っているのに、この小さな生き物から生気を奪って自分を“満たしたい”とは思わない……
小さな丸い手足とぽってり膨らんだ腹で、されるがままにじっと自分を見つめているこの赤ん坊を眺めていた。
静かに微笑みかけながら、細く長い指と大きな掌で、娘を優しく包んで抱き上げる。

「小夜子さんは言ってくれました、私にも命をつくりだすことができたのだと。私は……ずっと……この命を守っていこうと思っています。
それが父親というものなら、私は父親になりたい」

小夜子はというと、赤ん坊を委ねてすっかりくつろいだ様子で彼を眺めていた。
——運命の出会い、か。
結婚式の紹介スピーチのような、陳腐なフレーズを思い浮かべて苦笑する。
理人との出会いが運命だと言ってしまったら、それは呪いになるだろう。
運命ではない。
いくつも枝分かれした中で、この道を選んできたのは、他ならぬ自分だ。
彼もまた、別の長い道を歩いてきた中で、自分の道と合流した。
そして、咲いた花が実をつけた、それだけのことなのだ。

橘は、すっかり変わってしまったこの部屋の景色が、嫌いではない。
たまに小言めいたことを漏らしはするが、実は自分の見解に自信がない。
しかし、もしも、新しい世界が歯車で回っていくのなら、自分はその中の一つになりたいと思っている。
だから今はとにかく、手の届く範囲を動かしていく。それが当座の合言葉だ。

今年は、ジャイアントとノームの漫才コンビ「穏健派」の持ちネタが、流行語大賞となった。
出版界では、探検家の園屋陽太郎が書いた幻界渡航記「この世の向こう側」が、一年以上に渡り、未だベストセラーをキープしている。
社会面で画期的なニュースといえば、ヴァンパイアの性質を活かした民間資格「ヴァンパイアヒーラー」が誕生したことだろう。
この資格を持つヴァンパイアは、警察や刑務所、病院などで、興奮状態にある者から速やかに余分な生気を吸い取り、身体に大きく影響させずに鎮静状態へ移行させる技術を持っている。
これが国家資格になれば、ヴァンパイアの性質に対する脅威も薄れ、新しい秩序が検討されることになるだろう。
彼らの働きに、期待が寄せられている。

【幻界ゲート】が開かれて、何か変わっただろうか。
その問いに対する現在の答えはこうだ。
『全てが変わった、しかし何も変わっていない』
まだ夜は、明けたばかりだ。

<夜明けの軋み、終わり>

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。